日本人として初めて宇宙へ飛び立った秋山豊寛さんをご存じでしょうか。歴史的な快挙を成し遂げたことで知られていますが、宇宙へ行くまでの歩みや帰還後に選んだ生き方も、多くの人の関心を集め続けています。
今回はこれまでの経歴や功績、心に残る名言や海外での印象について詳しくご紹介します。
もくじ
秋山豊寛さんの経歴
秋山豊寛さんは1942年に東京都で生まれ、若い頃から国際問題やメディアの仕事に強い関心を持っていました。一つの枠にとらわれず、時代ごとに新しい分野へ挑み続けた姿勢も大きな特徴です。華やかな経歴の裏には、自分の目で確かめたことを大切にする一貫した思いがありました。
ここでは、社会人としての出発点から後半生の活動まで、これまでの歩みを順番に見ていきましょう。
1966年にTBSへ入社
1966年に国際基督教大学を卒業し、同年TBSへ入社しました。政治部や外信部で取材を重ね、ロンドン駐在やワシントン支局長も務めた経験豊富な記者です。1989年にはTBSの40周年記念事業「宇宙特派員計画」で、同僚の菊地涼子さんとともに候補者へ選ばれました。
同年10月から旧ソ連の訓練施設「星の街」へ入り、約14か月にわたってロシア語や宇宙船の仕組み、緊急時の対応などを一から学びます。厳しい訓練を経て秋山さんが搭乗し、菊地さんは控えを務めました。
1995年にTBSを退社
1995年12月にTBSを退社し、翌年から福島県滝根町(現・田村市)へ移り住みました。しかし2011年の福島第一原発事故で畑を手放し、群馬県を経て京都へ拠点を移します。
同年秋には京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の教授となり、情報メディア論や農作業の授業を担当しました。
2017年4月には三重県大台町で畑仕事を再開し、執筆活動も続けます。2026年8月26日に84歳で自宅にて亡くなり、同年10月には菊地涼子さんの追悼記事がTBSで公開されました。
秋山豊寛さんの訃報に接し、信じられない気持ちです。大病を克服されて意気軒高なご様子を伺っていたのに…。星の街でのパラシュート降下訓練で、地上に無事降り立った時に「また会えてよかったね」って握手していただいた時の笑顔を思い出しました。お世話になりました。 ご冥福をお祈りいたします。
— 菊地涼子🇺🇦🇵🇸🇮🇷 (@ryoko_kikuchi) September 1, 2026
秋山豊寛さんの功績
秋山豊寛さんは1990年12月2日、旧ソ連の宇宙船「ソユーズTM-11」で日本人初の宇宙飛行を果たしました。12月4日に宇宙ステーション「ミール」へ到着し、約6日間滞在して10日に帰還しています。世界初の宇宙ジャーナリストとして、約190時間の飛行中にテレビとラジオで計37時間の生中継を行いました。宙に浮く水滴の実演やカエルの観察実験など、無重力の世界を身近に伝えています。
なお、毛利衛さんの「日本人初」は、1992年のNASAスペースシャトル搭乗を指す記録です。
秋山豊寛さんの名言3選
これまでに残した数々の言葉には、作られた立派な演説よりも、その場で感じたことを素直に伝える記者らしさが表れています。
宇宙空間という特別な環境で発した言葉から、後年のインタビューで明かした仕事観まで、どれもありのままの思いが込められていました。専門用語を並べない親しみやすい語り口だからこそ、当時の視聴者にも強く響いたといえます。
ここからは、当時の中継や本人のインタビューをもとに、代表的な3つの名言が生まれた背景と生き方との関わりをご紹介します。
「これ本番ですか?」
宇宙から届けた第一声は、「これ、本番ですか?」という意外な一言でした。打ち上げ後のソユーズ船内で、地上とのラジオ中継がつながった瞬間に飛び出した言葉です。
後年の取材では、地上のアナウンサーが打ち合わせより5秒早く呼びかけたため、思わず尋ねたと明かしています。実は「地球は混沌としている」という別の言葉を用意していたそうです。
この予想外のやり取りは反響を呼び、1991年刊行のTBSラジオ編の交信録『これ、本番ですか。』の書名にもなりました。
「地球はやっぱり青いですね」
宇宙から地球を眺め、「やっぱり青いですね」と感想を伝えました。2017年の取材では、朝日で赤く染まる雲や、宇宙の闇に溶け込む薄い大気の層が美しかったと振り返っています。
秋山豊寛さん死去 84歳 1990年に日本人初の宇宙飛行 「地球はやっぱり青いですね」 https://t.co/AmryezExH1 ⠀ TBS外信部デスク時代に宇宙飛行士の社内選抜に合格。1990年12月、旧ソ連のソユーズ宇宙船で宇宙科学ステーション「ミール」と地球を往復し、9日間の宇宙滞在を経験した。宇宙からの第一声 「これ本番ですか」が話題となり、出版された交信録の題名に。「地球はやっぱり青いですね」とリポートした。
— オリコンニュース (@oricon) September 1, 2026
一方で、日本の都市上空は灰色にかすみ、東京の輪郭もはっきり見えなかったそうです。青い景色だけでなく、地球を守る大気が皮一枚ほどの薄さしかないことにも衝撃を受けました。
この体験から「地に足がついた生き方をしよう」と考えるようになり、自然環境や食と向き合う暮らしへつながっています。
「好奇心」を軸にした仕事と生き方
2008年の母校での取材では、「僕の場合、『好奇心』を軸に生きている」と語りました。学生時代に学ぶ面白さを知り、気になることは自分の目で確かめたいと考えたそうです。
帰還後は報道局の管理職も務めますが、「自分にしかできないことをやりたい」と53歳で新たな道へ踏み出しました。安定した立場にとどまるより、未知の世界へ飛び込むことを選んだ決断といえます。
後半生に選んだ畑仕事も、単なる産業としてではなく、日本の春夏秋冬とともに営む暮らしとして体験したかったからだと明かしています。
秋山豊寛さんの海外での印象
その挑戦は、海外でも打ち上げ前から注目を集めていました。米紙『ワシントン・ポスト』は1990年11月に飛行計画を紹介し、『ロサンゼルス・タイムズ』もプロの飛行士ではない記者が宇宙へ向かう快挙を伝えています。
また、宇宙酔いや船内トイレの不便さを隠さない率直な言動に加え、TBSと旧ソ連の商業契約やロケットの日本企業広告も話題を呼びました。
2026年の『ニューヨーク・タイムズ』は追悼記事で「宇宙のアンチヒーロー(型破りな主役)」と称し、等身大の人柄を振り返っています。
まとめ
秋山豊寛さんの経歴や功績、印象的な名言や海外での反応についてご紹介しました。民間人として初めて宇宙から生中継を届けただけでなく、その後も自分の心に正直に歩み続けた人物です。
どんな場面でも背伸びをせず、自分の目で確かめたことを率直な言葉で伝えてきた姿は、世代や国境を越えて国内外の多くの人に親しまれました。
常識にとらわれず生涯にわたって挑戦を続けたその生き方は、これからも多くの人の心に残るはずです。






